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2006/10/27

長塚圭史さん作・演出「アジアの女」

感情が麻痺してるから聞かせてよその物語のつづきをもっと

気休めでしかなくていい叶えたいことを君にも敢えて言いたい


物語が発生した歴史とはどんなものだったのだろう。正解は分からないけど、それは希望がキーワードじゃないかって思う。

長塚圭史さん作演出のお芝居「アジアの女」を見た。

舞台は震災後の東京。避難勧告の出ている地域に住む兄(近藤芳正さん)と妹(富田靖子さん)を中心に物語は進む。兄はアル中で妹は精神病だ。母親は妹の看病による心労で父親は震災で生き埋めになって死んだ。

妹は一階に埋まって亡くなっているはずの父親がまだ生きていると信じて、限られた食料を埋もれた一階に隙間から入れ込む。また不毛な土地に畑をつくり貴重な水をやる。芽が出たら配給をもらわなくても食べていけると信じる。一切芽が出る気配はない。兄は健気に水をやる妹に合わせてあげている。

そんな二人の生活を脅かす男が現れる。親の権力と金で作家になった、才能ゼロの男(岩松了さん)だ。むかし兄が編集者として彼を世話していた。

彼はない才能を信じてつまらない物語をつくる。盗作までしてる救いようのない馬鹿。でも最後の最後に、素晴らしい物語を思い付く。妹が不毛な土地に水をあげることから発想した物語だ。とっても美しい話。

物語とは…ということを考えさせられたお芝居だった。

どんなに悲惨な状況であろうとも、人は想像力で乗り越えてゆく力を持っている。

物語とは祈りだと思った。

このお芝居の中に、馬鹿な作家が素敵な物語を思い付くまで、沈黙が30秒ぐらい続くシーンがあった。ゆらゆら帝国のノイズやオーラの泉の江原先生がどっかに通信してるときみたいに延々と続くからドキドキした。

そのときはこちらも物語を練った。どんな物語なのか、想像力をフルに使った魅惑の時間だったと思う。緊張感が劇場に満タンになってた。会場にいる人たちの想像力で満タンだったんだ。

帰ってきてこのお芝居のことを思い返したときに、やっぱりあの馬鹿があんなに素敵な話を思い付くはずない!と思った。もしかしたら、それは妹の実話だったのかもしれないなぁ。そう考えたら衝撃のラストもつじつまが合うのですよ。(そのラストっていうのはもったいないから言わないですよ)

どこまでも長塚さんって人は「物語」が大好きなんだと思う。物語の要は、登場人物にすら託したくない。あくまで自分が書きたいんだ。なんという生き様だろう、かっこいいと思った。それぐらいクールなことがしてみたいね。

短歌は「アジアの女」を見てから発想したもの。

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2006/10/17

写真コラボ①まなざしの光

まなざしのような光が落ちていて気付いた 二人は二人だったね

3_12


好きだった人とはなればなれになることになった。

ふとした瞬間、
例えば自動販売機でジュースを買うときに、
その人との思い出がよぎる。

それは自動販売機とはまったく関係のない記憶だ。
連想ゲーム10回繰り返して想像するようなこと。
そんな面倒な回路が一瞬にして起こる。

掃除機のコンセント戻すみたいに。
しゅるるるるっ。

はっきり言って、
今の今まで「必要のない情報」として
海馬の中に埋もれていた出来事だったよ。

でも、なんて強烈なんだ、こりゃ。
なんて鮮やかなんだろう。

たぶんそのときの本来の鮮やかさとは違う、
もっと色々なものがついている鮮やかさ、
なんだろう。

その、色々なもの、
鮮やかさをもっと美しくしているもの、
それを信じたいと思う。

真実かどうかではなくて、
自分にとってどうなのかが問題なのだと思う。
解釈の力だ。

悔やんだり、沈んだり、騒いだりするんじゃなくて、
「二人は二人だったね」って終着点は必ずある。

写真は親愛なるにょろこさん撮影。
これまでの作品も素敵です。

この写真にも鮮やかさはないけれど、
見る人が見たら、とても強烈に写るんだろう。
真実かどうかは、あまり関係がないのかも。

こーんな風に、これからたまに写真コラボを実施予定。
今回は記念すべき第一弾でした。
張り切ってちょっと小説風に書いてみました。
にょろこさんのサイトも記事を同じ日にアップしています。
両方でお楽しみください。

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2006/10/16

YOSHITOMO NARA + graf A to Z

ぴんとした姿勢でいたい状況や気持ちがどうであろうとしても


青森県弘前市にある吉井酒造煉瓦倉庫奈良美智さんgrafによる展覧会「A to Z」が開催されています。

先月、休日を利用して行ってきました。

以前は酒倉だった煉瓦倉庫のだだっ広いスペースに、奈良さんの描いたドローイング、彫刻、絵などがめいいっぱい飾られています。

grafはその会場を設営したグループ。インテリアなど空間デザインを手がける人たちです。grafの中でも豊嶋秀樹さんが中心になってAからZまでの小屋を手作りしています。

小屋は極端に狭かったり、大きかったり、長方形だったり、多角形だったり、色々な形態のものがあります。素材も木だけではなくて、布でできたものもあります。それも、grafと奈良さんが地域の人から集めた中古品だったり、物々交換したものだったり、海外から持ってきたものだったり、素敵なエピソードがあって、味わい深いです。

見に来た人たちは、階段を登ったり、トンネルをくぐったり、穴を覗いたり、空間を楽しむのに大忙しです。人が一人入れればいいものもあるし、誰も入れないで覗くだけのところもあるし、数人で楽しめる仕掛けがあるものもあります。

いわば、小さな街ですね。野良猫もいます。

その街には、ところどころに椅子があって休憩することもできます。神様のような彫刻もあり、お祈りだってできるのです。展望台で、街全体を見回すこともできます。夜の海を眺めることもできます。海をデッキから見たり、船から見たりできるんです。かくれんぼしたら楽しそうだなぁって思いました。

ここまで書いたけれど、この展覧会のことはうまく言葉で表現ができないので、ほぼ日の糸井さんと奈良さんの対談の写真を見ていただけるといいですね。

対談の内容もとても興味深いです。というか、この人はどうしてこんなに正確に思っていることを表現できるんだろうか、と思います。文筆家じゃないのに。

さて、話は戻って、色々と素敵だなと思ったことがありましたが、なによりも一番気に入ったのは、明るい工夫が随所に施されている点です。

それは人と人とが出会う工夫です。

一階から梯子を上ると二階にいる人と目がある仕組みとか、同じ作品でも他方向から見ることができて見ている人の姿も作品の一部といえるようなものなど…。

とある場所では、離れた場所にいる赤ちゃんに手をふることもできました。にこにこしてたなぁ。

しかも、この展覧会の作り手自体も奈良さんだけのものではありません。grafのものでもないです。ゲストアーティストがいます。写真家の川内倫子さんや画家の杉戸洋さん、雑誌「H」で掲載されていた漫画家の松本大洋さんなどのコラボレーションを見ることができるんです。

中でもわたしは杉戸さんのお部屋が大好きになってしまって、何回もそこに行きました。順路がおおまかでしか決まっていないので、行ったり来たりできるのがも魅力です。

街はけっして孤独ではなくて、誰かと誰かのやりとりがひとつひとつに含まれているのだな、と改めて思いました。

わたしの住んでいる家の近くにも、野良猫がいて、ベンチがあって、人と人とが偶然すれ違います。そのことを、遠い青森の地から思ったのでした。

わたしはこの展覧会に一人で行きましたが、全然寂しくなんてなかったです。強がりじゃなくて。i-podで美術館ガイドを聴きながら見た、というのもさびしくなかった理由のひとつかもしれないけれど。ここで誰でもダウンロードできます。これを聞けば、行った気になれるかも?

それに、現場にいるガイドの人も随所で話しかけてくれて、見逃しやすいポイントを教えてくれました。
「この椅子に座ったら、あの作品が見れるんですよ」って。
その笑顔ったら、素敵でした。

この展覧会で感じた、人が人と一緒にいるときのあたたかさは、これからのわたしのお守りになってくれるだろう、と思います。

ちょうど先月は自分の周りの人間関係で色々なことがありました。寂しいことだったり、楽しいことだったり、いい意味で、強烈でした。そんな混乱の中での着地点がこの奈良さんの展覧会だったのは幸運なこと。

人間関係の、ウェットでもドライでもない、ちょうどいい関係性。相手を知っているか、愛しているかが基準ではなく、人と人とが関わる「瞬間」の良さ。はなればなれになろうが、くっついていようが、絶対的にある繋がり。

大事なことをようやく知ることができました。まだ知らないことだらけだ、世界は。

短歌は、わたしが奈良さんの描く女の子が好きな理由を表現したものです。ようやく理解できた、わたしが奈良さんの絵を好きな理由です。

Nara1Nara2Nara3


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2006/10/13

声は聞こえる

奪われた過去もいつかは報われて声は命よりあとに止む


大切なお友だちに彼氏ができた。

病気や両親のことや恋愛や仕事、金銭面での苦労、
彼女のこれまでの人生がどれだけ大変だったかを知っている。

わたしは彼女の面倒を一生みてあげるつもりでいた。
自分の立場もわきまえず、本気で。
それしかないかも、と真面目に思っていたのだった。

だけどこれからは彼氏にお任せできる。
年上で頼もしそうだし。結婚しないかな!

以上のようなことをおばあちゃんと話していたら、
とあるエピソードを聞いた。

三年前に亡くなったおじいちゃんは、
わたしの母がお嫁にいくことになったとき、
悔しくて悔しくてふとんをかぶって声をあげて泣いたんだそうだ。
でも、ふとんから声がもれてた、って。

おじいちゃんは毅然とした強い人で、おばあちゃんですら
泣いたのを他に一回しか見たことがないらしい。
何があっても慌てないし短気もおこさない。

そんな寡黙なおじいちゃんの、稀に見る激しいつらさを想った。
そして、その気持ちの尊さや品格を感じた。
「かわいそうだったね」と呟いた。
なんだかちょっと悲しくなってくる。

でも、でもでも、その結婚のおかげで、
兄が生まれてわたしが生まれて
姪(おじいちゃんにとってはひ孫だよ)が生まれた。
わたしの子だって生まれるかもしれない。
おばあちゃんはその子にもきっと会える。
だから良かったでしょ。

そうやって今度は、おじいちゃんに話しかけるように心の中で思った。
きっと聞こえている。

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2006/10/06

チンして食べろ

落ち込みをテイクアウトにして食べるたった一人でチンして食べる


一人暮らしを始めて5ヶ月。

この5ヶ月で精神的にすごく健康になりました。

実家にいたときは、自分がダメな理由を親のせいにしていました。

親のせいにする人は、会社のせいにするし、社会のせいにします。
あれ、自分がそうだっただけかしら?

今はそうじゃなくなりつつあります。
その証拠に、そういう人を見るとムカつくのであります。

あと、実家にいたときの方が、
「寂しい寂しい」っていう内容の短歌をいっぱい書いていました。
このブログには公開していないですけども。

もしかしたら、
寂しいというのは自分勝手の証とも言える、
かもしれません。

でも、寂しいものはきっともう寂しいので、
そういうときは素直にそう言えばいいじゃん、と思うのであります。

(なんとなく、ところどころを、ナカタさん風に言ってみました)

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