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2008/01/31

美学―爆笑問題のニッポンの教養を見て

短歌を詠まない記事が続きます。

先日「爆笑問題のニッポンの教養」を見ました。
テーマは「美学」でした。

太田さんが普段から考えていることを
がーっとお話をされていたのが印象的でした。
ゲストよりもおしゃべりでした!

共感したのは、
「あらゆる美は聖書を目指す」
とかいう話。

おおすじはこんな感じ。

 聖書はあらゆる寄せ集めである。
 一人でつくれるようなものではない。
 爆笑問題のネタでも、
 こりゃ、最高におもしろいと感じるのは、
 お客さんもいいとき。
 自分だけではダメだし、
 田中みたいな馬鹿がいてこそ、
 おもしろいんだ。
 色々な力が集まって、いいものになる。
 美ってそういうもの。

だいぶ私の主観が混じっていますが、
そんなようなことを言っていたわけです。

これを試しに、短歌に落とし込んでみる。

私がいくらしゃかりきに、
「うーん、これは言い切ったぞ」
と思うような短歌があったとして、
短歌そのものの完成度以上の「美」が、
人の心の中に起こっているかもしれない。
その時点で作品はもう作者のものじゃない。
そうやって作品は鑑賞されていく。
そのことを認めるとちょっとは楽になるかな。

そんなことを考えていて、もうちょっと飛躍して、
じゃあ、こう言えるよなと思った。

 「美」は発見されなければ決して「美」にならない。

それって当たり前のことだけど、改めて、ちょっとびっくりした。

まだ発見していない「美」の無尽蔵の可能性。
そこに思いをはせるとめまいをおこしそう。
見逃してきた「美」だってあるはずだ。
今、そこにあって、気付かないでいる「美」も。
あえて気付いてたまるかと思っている「美」もあるね。
それはよくあるわ。

あなたの周りにはどんな「美」がありますか。
よかったら、教えてください。そして、気付いてみてください。

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コメント

>短歌そのもの以上の「美」が人の心に起こっているかもしれない
>その時点で作品はもう作者のものじゃない

そして

> 「美」は発見されなければ決して「美」にならない。

 写真でいう「切り取り方」、がユメギワちゃんの言葉の世界では
鋭く、短歌を詠む人というのは、短歌に対する美への洞察も
優れているなぁと思いました
 見逃してきた「美」、これから少しでも見逃さないようにするには
あるひとつのものごとに執着せずにいる姿勢が必要なのかも
(これは私に言い聞かせているんだけど、、
わたしの、これまで「美」と認識してきたものは、短歌でも写真でも
もっと現実的にいえば人でも、とても共通項があり、限定された美に
あふれかえっているので。)
 素敵なエントリーでした
このコメントの冒頭で引用させてもらった数行、とても素敵なので
いずれ私の記事で紹介させてもらってもいい?

投稿: min | 2008/02/06 10:24

コメントどうもです。なんか恐縮です。
どう紹介していただいても構いませんよ~。
「作品はもう作者のものじゃない」ということは、
minさんから学んだことがたくさん。
私以上に「赤い水銀」を読んでくれたからです。

minさんがおっしゃる「美」の考え方も、
注目すべき問題だなぁと思います。
自分が自分を限定してしまっているってことですよね。
それは私もよく感じます。偏見が邪魔することがよくあります。
そういう癖を知っているから、できるだけ、
考えずに動くということも敢えてやったりします。
そうすると意外な「美」が見えることもありますね。
minさんの記事も楽しみにしていますね。

投稿: ユメギワ | 2008/02/06 12:08

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