2008/05/29

阿佐ヶ谷スパイダース「失われた時間を求めて」

万が一失われたら取り返すだけのことです 彼も時間も


阿佐ヶ谷スパイダース「失われた時間を求めて」を観劇した。

今回は阿佐スパメンバー三人(長塚圭史、中山祐一朗、伊達暁)、
あともうひとりは、奥菜恵。

会場のベニサンピットは、学生演劇の箱かというぐらい狭い。
10列ぐらいだからキャパは200人ぐらいでしょうか。

そして、内容も学生演劇みたいだった…!

四人の、あるようでない関係性と、意味深なセリフ、
何かしらの役割が分かれているであろう壁で仕切られた舞台。
そもそも四人に共通する時間が存在していない模様。
ストーリーもなく、哲学的なムードが漂っていた。
こういうのって、学生演劇によくありませんか。

とにかく超不穏。

耐えきれず寝ているお客さんが続出していた。
私は意味を読み取ろうと脳に汗をかくような想いで見た。
だってね、好きだから、信じているから。
でも、意味は、分かり切っていないと感じている。

一番印象的だったのは中山さんの役の、言い分。

『俺は毎日残忍なことを考えている最低な男なんだ。あんなやつらは死ねばいい、殺してしまいたい。ずっと毎日そんなことばかり思っていた。そして俺は今日ついに行動に出た。大家を家ごと丸焼きにして殺してしまおう、と。ガソリンを用意した、火をつけようと思ったんだ。そして、俺は試してみた。こんなときにどうなるか試してみたんだ。くじをひいてみた。そしたら、これだ、こんなに儲けてしまった(と言って、札束を振りまく)。今から、残忍に人を殺そうとしている人間が!過去最高に儲けてしまった。こんなお金など、俺には意味がない。俺が信じていたものは間違っていた。こうだと信じていたことが、本当はこうだったのだ。俺はどうしたらいいのだ。』

つまり「自分のことなんか神様は見ていない!」という怒りと悲しみ。
それに振り回された命の人のセリフ。

確かに不条理だなあと思うことがこの世にはいっぱいある。
今自分がこうだから明日こうなる、という証明がないように見える。

だけど、私は、くじが当たったことこそが証明じゃないかと思った。
神様がいるかどうかが問題じゃなくて、
自分が自分を助けることができると知るべきだもん。
彼の役が、不憫に思えてなりませんでした。

誰かや何かを試すようなことをする人生は悲しいです。
それでは、あまりにも受け身だからです。

私もつい、相手が自分をどう思っているか探りを入れたりするし、
気付いてほしいと思いながら、表現しないで期待をするだけとか、
器の小さい行動をしてしまうこともあります。

弱いから仕方がないんだけど、そういう行動は「相手ありき」です。
だから、絶対に絶対に、行き詰る。

神様がどうとか、家族がどうとか、他人がどうとか、
自分の人生にどれほどの関係があるのでしょうか?
そりゃあ、ないとは言い切れないけど、あるとも言い切れない。

時間だってそう。時間が経ちすぎたからこうだとか、
時間が足りないからこうだとか、そんなことは言えるのか。
そりゃあ、言えるけど、言ってしまっておしまいでいいのか。 

時間を重ねることは、主体性を確立していくことであって欲しい。
そして、自分の力を誰かのために使っていくことを目指したい。
それが真の成長じゃないかと今は思います。
そういう生き方は身近な年配の方が、身で教えてくれています。

お芝居のメッセージは感じる人によってそれぞれだろうけど、
私としてはそんな風に思いました。

これまでの阿佐ヶ谷スパイダース作品と全然違うから、
見た直後は「あれ~?」って感じは否めませんでしたが、
やっぱりよく思考すると何かを受け止めさせてくれる、
そんな阿佐ヶ谷スパイダースがまだまだ大好きです。

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2007/07/09

阿佐ヶ谷スパイダース「少女とガソリン」

喉に砂詰められていて真実が飲めずに何を飲めばいいのか

不安から逃げる手段として使う言葉は息をひきとりました

君がきた気がしたそれは気のせいで小雨が降ってきただけだった

肩越しに小鳥が歌う解釈があるから全ては幻なのか

尋常じゃない大きさの眠たさに襲われていても夜は来なくて

まず海にかえる再び立ち上がるときを約束してくれるから

恐れずに決めつけてみる太陽が太陽だって信じてもみる

最後には血の味がする奪われるものは一つもない夜が明ける

子守唄染みこむ背中と胸があり電信柱がつくる高影


阿佐ヶ谷スパイダース「少女とガソリン」を見て詠みました。
ぐわんぐわんと感情が揺れたお芝居でした。

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2006/10/27

長塚圭史さん作・演出「アジアの女」

感情が麻痺してるから聞かせてよその物語のつづきをもっと

気休めでしかなくていい叶えたいことを君にも敢えて言いたい


物語が発生した歴史とはどんなものだったのだろう。正解は分からないけど、それは希望がキーワードじゃないかって思う。

長塚圭史さん作演出のお芝居「アジアの女」を見た。

舞台は震災後の東京。避難勧告の出ている地域に住む兄(近藤芳正さん)と妹(富田靖子さん)を中心に物語は進む。兄はアル中で妹は精神病だ。母親は妹の看病による心労で父親は震災で生き埋めになって死んだ。

妹は一階に埋まって亡くなっているはずの父親がまだ生きていると信じて、限られた食料を埋もれた一階に隙間から入れ込む。また不毛な土地に畑をつくり貴重な水をやる。芽が出たら配給をもらわなくても食べていけると信じる。一切芽が出る気配はない。兄は健気に水をやる妹に合わせてあげている。

そんな二人の生活を脅かす男が現れる。親の権力と金で作家になった、才能ゼロの男(岩松了さん)だ。むかし兄が編集者として彼を世話していた。

彼はない才能を信じてつまらない物語をつくる。盗作までしてる救いようのない馬鹿。でも最後の最後に、素晴らしい物語を思い付く。妹が不毛な土地に水をあげることから発想した物語だ。とっても美しい話。

物語とは…ということを考えさせられたお芝居だった。

どんなに悲惨な状況であろうとも、人は想像力で乗り越えてゆく力を持っている。

物語とは祈りだと思った。

このお芝居の中に、馬鹿な作家が素敵な物語を思い付くまで、沈黙が30秒ぐらい続くシーンがあった。ゆらゆら帝国のノイズやオーラの泉の江原先生がどっかに通信してるときみたいに延々と続くからドキドキした。

そのときはこちらも物語を練った。どんな物語なのか、想像力をフルに使った魅惑の時間だったと思う。緊張感が劇場に満タンになってた。会場にいる人たちの想像力で満タンだったんだ。

帰ってきてこのお芝居のことを思い返したときに、やっぱりあの馬鹿があんなに素敵な話を思い付くはずない!と思った。もしかしたら、それは妹の実話だったのかもしれないなぁ。そう考えたら衝撃のラストもつじつまが合うのですよ。(そのラストっていうのはもったいないから言わないですよ)

どこまでも長塚さんって人は「物語」が大好きなんだと思う。物語の要は、登場人物にすら託したくない。あくまで自分が書きたいんだ。なんという生き様だろう、かっこいいと思った。それぐらいクールなことがしてみたいね。

短歌は「アジアの女」を見てから発想したもの。

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2006/07/19

シベリア少女鉄道に乗る

神様は残酷だからできるだけ巨大なドミノ倒しがお好き


シベリア少女鉄道という劇団の16回公演「残酷な神が支配する」を見てきました。
ふつふつと興奮して、たくさん笑いました。

彼らのずばぬけているところは物語ではなくてお芝居そのものにトライしているところです。
お芝居でしかできないことをやるんです。

お芝居といえば阿佐ヶ谷スパイダースしか知らないので比較対象が足りなすぎるんですが、阿佐ヶ谷スパイダースは物語やセリフの魅力が前面に出てくるので、それが「お芝居である」「ライブである」ということは足し算の魅力になるわけです。

だけど、シベリア少女鉄道は「お芝居である」ということは大前提であって、それがなければ意味をなしません。
0になってしまいます。

笑い飯みたいに、まず形式に挑戦しているんです。
それから以降の、中身の強みももちろん持ち合わせています。
というかそれからの強みだけでもやっていけます。
なにしろ脚本が巧妙で、伏線ありまくりでどれがどう繋がったのか把握できなくなるほど。
ほどくのが嫌になるほど絡まります。

駅までの帰り道に誰かが言っていたのを盗み聞きしたんですが、脚本演出の土屋さんはエクセルで台本を書くらしいです!
順番を変えやすいからでしょう。
確かに理系のにおいのする劇団で、お客さんの年齢層も高め、アキバっぽい人(リュック率高い!)も多かったです。
一人客も多いし。わたしもそうだし。

彼らの芝居は前半後半がくっきり分かれています。
休憩があるのではなくて、ここから飛躍しますよぅという合図みたいなのがあります。
そこからは本当にびっくり。
加速してとまりません。
飛躍する、抜けるあの感じはなんとも表現できません、ちくしょー!

とにかく、破壊のための構築と破壊なのです。
それが爽快な自分は曲がっているのかもしれないなぁ。

あー、でも、なんて気持ちいいんだろう。

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2006/03/03

宝塚「ベルばら」へ

最後には最後の最後の最後には結ばれるから安心しよう


今日は日比谷まで宝塚の「ベルサイユのばら」を見に行った。
学生時代に働いていたバイト先の先輩が誘ってくれたのだ。
プラチナチケットなので、手に入れるのが大変だったらしい。
ありがたいなぁ。

それで、とにかく、宝塚はすごかった。
ステージは20以上も場面の装置が変わる。
そのどれもが豪華。
遊園地かと思った。
少なくとも花やしきよりは豪華なつくりだ。

それから、キラキラ光るドレス。
登場人物がはんぱなく多いのに、どの人のドレスもきれい。
ステージにいっぱいいっぱい大混雑の人達のどのドレスも、
刺繍やラメなど細かく凝っている。
オペラグラスで見なくちゃ分からないのに、
だからほとんどの人にははっきりとは分からないのに!

特に「ベルばら」は宝塚の中でも最も予算をかけて作るらしい。
何日も公演をやっても採算がとれず赤字とのこと。
でも、全ては「お客様に夢を与えるため」。
なんて素敵なお仕事なのだろう。

さてさて今回のお芝居は、
アンドレとオスカル、フェルゼンとマリーアントワネットの恋、
二つが描かれていたのですが、
どちらの恋も報われない恋だったわけです。

でも死ぬ直前にようやく報われるのです。
っていうか、報われた瞬間に死んじゃう。

もー、じれったいなぁ!と思って見ていた。
なんでいまさら気付いちゃうんだろうなぁ、
もっと早く気付かなきゃ意味無いじゃんって。

だけど、帰り道に色々考えをめぐらせていたら、はっ!と気付いた。

あれは最後の最後の実りだったんだ、
最後の最後だからこその実りだったんだ、って分かった。
それってつまりハッピーエンド。

やっぱりハッピーエンドがいいなぁ。

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2006/02/20

阿佐スパ「桜飛沫」へ

言葉ではさよならでしかない君の気持ちに光が射してきれいだ

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昨日、阿佐ヶ谷スパイダースのお芝居「桜飛沫」を見てきた。

この芝居を作・演出した長塚圭史さんは、
2005年度の読売演劇大賞の優秀作品賞をとった
「LAST SHOW」を書いた方で、
たぶん若手で一番注目されてる演劇人と言っていい。

今回の作品は二部構成の時代劇。
ある寂れた村のお話から始まる。

そこには悪い権力者三兄弟がいて、
「三人以上子供をつくってはいけない。それ以上いたら殺生する」
というおふれを出していた。

その悪人たちには子供ができずそのハライセだったが、
村民は性欲を全く押さえられない人だらけ。
秘密は、蛇を食べているかららしい。

別の土地から医師がきて避妊の仕方を教えてあげても変わらず、
規定の人数を超えた子供は殺される運命を避けることができない。

目の前で息子を殺された村民たちは悲しみ、
自分たちをいじめる兄弟を殺す計画を立てる。

プロローグはそんなところで、そこに残忍な暴力や、小さな恋心、
安易に暮らしていた過去によって落ちていった人たちの曲がった感情が、
ブラックなユーモアにまじって嵐のように登場する。

舞台上には、桜の木が堂々と設置されていた。
幹のしなりや花びら、本物みたいに豪華だった。

花びらがぱらぱらと散る様子はまるで映画のよう。
みとれた。
長塚さん自身、
「舞台で映画的な世界を作ろうと思ってた時期があるんですよ」
とパンフでのSABU監督との対談で語っていたけれど、もうクリアしているなぁ。

普通の言葉がとっても印象的なタイミングに入ってくるんだもの、泣けた。
物語においては、セリフが美しい必要はなくて、シーンの美しさが大切だ。
北野武監督のを見ると、そのことを感じることが多い。

日常だってそうだ。
彼が何を言ったかよりも、その場面に光や自然がどう寄り添うか、みたいな。
そういうことばかり、記憶に残ってしまうことってありませんか。

さて、そのお芝居の内容を、わたしなりに噛み砕いてみると、
ここに出てくる人たちはみんな死にたがっていて、
自分で自分を悪い方に持っていってるという風に思えた。
それは信念のために、だ。
信念のために死にたい。
つまり、ただでは死にたくないってことだ。

そして、信念は単純に欲望でしかない。
信念なんて所詮は独り善がりだ。

だけど独り善がりがわたしをあらわしている。
独り善がりが、その人をキュートにしている。

長塚さんの作品は、否定から入って結局ぐるっと肯定して終わる。
独り善がりは汚いことだけれど、独り善がっていいじゃない。
そう思うお芝居だった。

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